父の太平洋戦争2021年08月15日 21:56

 大正11年生まれの亡くなった父の遺品の中から、戦時中の絵が出てきました。
母の絵日記と違って文章がついていないので、詳細は不明です。しかも、あまりうまくはありません。
 父は海軍だったとは思うのですが、英語ができたので、通訳だとかで戦地に行かずに終戦を迎えたようです。
 でもその頃の話は私達には決して話してくれませんでした。おじから聞きました。

 この絵はいつ頃父が描いたのか不明ですが、海軍技術浜名会という封書の中から出てきたので、おそらくそこにいたのでしょう。紙はわら半紙より少し厚手の紙です。母の絵日記のものと比べると昭和16年から17年といったところでしょうか。





 会報誌にでも載せたのでしょうか? 絵の裏側に鉛筆で通し番号が降ってありました。
 一応その順でここには載せます。上の絵は多分寝起きした兵舎なのでしょうね。

 全部で19枚あります。
 父は戦地に行かなかったので、多少の後ろめたさはあったと思います。
 でも、海軍のそこで会った友人達と、家でよく軍歌を歌っていたのを覚えています。ボロですが旭日旗もありました。
 陽気な人達という印象でした。でも後々、戦争の悲話を見聞きして、父達はなにを喜び勇んで歌っていたのだろうと思いました。私には偲んでいたというよりは宴会に見えました。

 父とちゃんと向き合って戦争の話を聞いたことはありませんでしたが、一年早かったら、自分も確実に戦地に行かされて戦っていたと、涙ながらに語ってくれました。生きるか死ぬか、わずか1年の差だったと。それも受験に失敗して1年浪人したからだと言ってたからです。85歳過ぎて初めて聞いた話でした。
 父の涙もその時初めて見ました。命拾いした涙というより、亡くなった戦友に対する涙だと私は思いました。

 両親が亡くなった今、悔やまれるのが、もっと戦争の話を聞いておけばよかったということです。このへたっぴな絵にしても、話を聞いておきたかったです。見せてもくれなかったのが悔しいです。

 でも、私はせっかくの材料なので、ここで披露してしまいます。
 浜名会というところから連絡あるかもしれませんね。どなたかに教えてほしいです。
 そうやって、小さなことでもあの戦争のことを伝えられたらいいなと思います。