昭和十七年八月十八日2020年04月25日 11:21

八月十八日  

 今日も馬に乗るつもりだったが、雨がふりつゞけなのでやめた。つまらない。兄は學校が二十日に始まるので、十九日にはどうしてもかへらなくてはならない。帰りたくない。あの暑いさわがしい東京へなど。いつもならまだまだ十日もゐられるのに、と思ふと文部大臣※までうらめしい。

  とにかく今日中にチッキを送り出すので、五時に起きて衣類のせいり。ふとんの片付け。食器の始末といそがしい。五時に起きたし、一日中雨で陽がちっとも照らないせいか時間の観念がちっともなくなって、おなかがすいた。お晝だらうと思ふと十時だったり、もう夕方かなと思ふと二時半だったりした。


昭和18年8月18日

 
 運送屋が二人來てふとん袋と行李と自轉車三台ともリヤカーで持って行ってしまった。

  午後、姉と兄は雨の降る中を百姓家へ行って、たうもろこしを三十五本とおきうりをリュックにウンウン言って持ってかへった。

  母は事務所のかへりに八百屋さんに寄ったら二尺位もある大きなゆふがほ※をくれたといって持ってかへられた。くたびれたので早くね



※文部大臣 戦時下だから夏休みを短縮すべしとの文部大臣の命令。実際にこの秋から、学生、生徒の各種勤労動員が始まる 

※ゆふがほ とうがん(冬瓜)のこと




昭和十七年八月十九日2020年04月25日 11:28

八月十九日  

 ひと月の思ひ出をのこして今日は軽井沢を去る日。

  この大好きな軽井沢を後にしてあの東京へかえるなんて考えてもいやだ。だけど仕方がない。この日記の始めから順に頁をめくると、ひと月のあひだの軽井沢での数々の楽しかった思ひ出が書いてある。目をつぶるとその時のありさま、人の顔、話などがはっきり浮かぶ。この晝間でも物音しない南軽井沢。家のまはり一面に咲いてゐるとりどりの秋草。きれいな声で鳴く鳥。夜になると宝石をはめこんだ様に光る押立山のホテル。一里でも二里でも走る自轉車。あとひと月位ゐられたらどんなによいだらう。

  とにかく朝早く起きて大急ぎで片付ける。今日も雨で寒い。ここへいつも置いてゆく食器、ふとん、それぞれ分けてつゝんでしまふ。おさうぢする。事務所へ行く。いそがしいいそがしい。

  それでもどうにか終って八時半頃自動車に來てもらふ。駅へ向ふ途中道がわるいので、水たまりでどろが自動車より高くはね上った。

  十時二十二分發なんだけれど場所をとるため、一時間も前に行くのである。
 改札口にはまだ三人しかゐないので安心した。二、三等車が増結すると言ってゐたが三等車が一台しかつかないことになったので三等でも坐れる方がよいから増結車に乗ることにした。

  座席はうまくとれた。ポォッピィッピィッと三つのちがふ汽笛をならして汽車は靜に動き出した。ゆっくりゆっくり走る。一面霧がかかってゐて、あたりの景色はおぼろげにしか見えない。矢ヶ崎山の裾だけ見える。ゴットンとにぶい音を立てゝ二十六号トンネルへ入った時はもうおしまいだと思った。

  熊ヶ谷の駅でプラットホームの前の方にアイスクリーム売りがゐるが中々こっちへこない。汽車が動き出した、兄が「よし、うまく買ってやれ」と動いてゐる窓口で「四ツ」といってお金をわたす。さうたう早く走ってゐるので、売子はソレッとか言ってアイスクリームの入ってゐる箱ごととび上って四つわたしてくれた。まさにキキイッパツである。乗客の感歎した様な顔、うらやましげな顔……(アイスクリームは少ないのです)

  汽車は雨の中を通ったり晴れた所を通ったりして東京へ近づく。雨が降ってゐるので毛織の上衣を着てゐたが、赤羽まで來ておかしいからぬいだ。東京まで着て行ったら人が笑ふだらう。

  上野で自動車を待つ間、町がごみごみしていること、さうざうしいこと、汚らしいのでびっくり。きょろきょろした。 

 家へつく。女中※がおさうぢしたと見えて中々きれいだ。さてこそ我が家なりといふ気がする。今日はとっても涼しい日ださうだ。ヘェこれでも……。何となくムッとする。


※女中 住み込みのお手伝いさん。この年くらいまで都会のサラリーマン世帯にはたいてい居た



昭和十七年八月二十日2020年04月25日 11:51

八月二十日  

 よいお天気。

  空気がモヤッとしてゐてせみの声がさわがしい。チッキはまだつかない。

  誠之(近所の小学校)はプール大會でもあるらしくワァワァワッワッキャァと大さわぎだ。もうお休みも今日で終りか。三十日なんてまたたく間にたってしまった。私には一週間よりもっと少いやうに。でもほんとによい夏休みであったと思ふ。

 北軽井沢の不破さんのおうちで過した十日間の思ひ出は一生忘れはしないだらう。

  あのおかしかった色々のことは、今でも思ひ出しては一人でクックッ笑ふので家の人に「なにがおかしいの」と言はれたりした。

  四人は今までよりもっともっと團結した仲良しになるだらう。そして時折思ひ出しては「あの時のこと」を話し合ふだらう。

  それに私は生まれて初めて一人でよそのおうちへ泊りに行ったのだからさうたう勉強になった。南軽井沢へ行ってからも學校の勤労奉仕に行かれなかったけれど、家で立派に勤労奉仕をした。

  けれど明日からは學校だ。ひと月の夏休みとはすべておわかれして勉強だ。  皆さんはきっと眞黒になってはり切っていらっしゃるだらう。學校がたのしみだ。