絵日記少女のその後2020年06月06日 14:26

〜個人の生活記録というよりは時代考証の参考として〜

  昭和十八〜十九年 女学校三年生〜四年生  

 戦時体制の緊迫感が迫って来る。太平洋戦争はすでに始まっていた。学校の半数くらいの教室に工業用ミシンが持ち込まれ「学校工場」と称して軍隊用の縫い物をしていた。要するに軍の下請け。飛行機や爆弾の工場にならぬよう父兄が奔走したらしい、授業はその合間にすこしだけあった。夏休みは無い。当然、日記帳も無い。
 この年の後半から、日本橋小伝馬町の藤倉という会社の工場へ毎日通うことになる。三年、四年、五年生(中三、高一、高二)落下傘の縫製、女学生ではない、女子工員である。防空頭巾と大豆、イモ入りの弁当をもって通う。残業には麦飯と切り干し大根が出た。一日も学校へ行かず授業は全く無い。親は私立校の月謝を納めていたらしいが、生徒は月給を貰っていた。

 
 昭和二十年 女学校四年生  

 三月十日。東京大空襲で工場は全焼。学校は半焼。仕事が無いから自宅待機せよとの命令。月末に学校から卒業式をするからと連絡あり。五年卒業まであと一年あるはずなのに、四、五年生同時に卒業せよと文部省の命令。  

 焼け残りの講堂で約半数しか出席しない卒業式。縁取りもなにも無いB5版模造紙の卒業証書が一枚だけ。記念写真無し、修学旅行無し。学問と知識を得る学びの場、学校生活、友との交流は名残を惜しむいとまも無くおしまいになった。   


 八月十五日 敗戦。太平洋戦争終結。    完



前列左端がこの絵日記の作者、故・井上和子です。この写真はおそらく昭和16年か17年に写真館で撮ったと思われます。母の腕にあるのは自分達で作ったおそろいのブローチです。「4 PETITES FILLES ESPIEGLES」4人のいたずら娘、とミシン刺繍してもらいそれをボタンでくるんだお手製です。



絵日記のあとがき2020年06月06日 14:40

 四冊の絵日記は原作者井上和子が七十年間手元に保存していたものです。娘の深澤涼子がそれを知っていて、自分の仕事として小冊子を作ってみたいといい出したことから母娘の復刻作業が始まりました。

  写真、資料を探し、度々の編集会議。旧かなづかい、旧漢字、今や死語となった昔の言葉、古い紙のシミ。編集者にとっては難問題がたくさんあったと思われます。

  自宅のテーブルが印刷所で、パソコンで文字を打ち直し、一枚づつの手刷り印刷、製本、和綴じ。手間のかかる作業で、最初の一巻が出来上がるまでに約三年の歳月を要しています。改めて御苦労様と御礼をいいたいです。

  そして、兄の絵を探し出してくれた姪の土屋昭子さんと、軽井沢で昔の別荘を見つけてくれた土屋理義さんご両人にも深く感謝いたします。

             

            平成二十四年三月十九日      井上 和子 記



↑あとがきなしだったので、一言ぐらいお礼を書いてよと言ったら書いてくれました。笑
数年に渡ったこの復刻作業は、疎遠がちだった母と娘も、時には喫茶店で顔を突き合わせ、作家と編集者みたいに語り合える良い関係になりました。高齢になっても敬う気持ちは大事だなーとこのとき感じました。
あのときの母は少女の顔になって輝いて話してくれました。戦争の話などはこういう機会がなかったら聞けなかったです。

戦争を知らない私ですが、こんな風に子どもの視点で書かれた戦中の絵日記を多くの人に見てもらえたらと思い、手製本で作り始めました。めったに褒めてくれなかった勝ち気な母も、この手製本には感動して褒めてくれました。私がした唯一の親孝行だったかもしれません。

残念なことに、母が亡くなった後にこの絵日記のことを新聞で取り上げてくれたり、テレビで紹介してくれたりしたのに、母は知りません。
将来は電子書籍にするねと言うところまでは話していて楽しみにしていました。電子書籍ではないですが、このブログで原文を披露できたので許してくれるでしょう。

私としては、紙の出版も、外国語での紹介もまだまだ未練はあるのですが、ひとまずここで終了します。

未発表の昭和16年冬の絵日記は後日ということにさせてください。

今度は私イノリン自身の絵日記を始められたらと思い、今デジタルでイラストを描く練習しています。1ヶ月後くらいに始められたら。。。その時はまたよろしくおねがいします。